チェコとイタリアの世界遺産をめぐる旅 |
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はじめに イタリアに始めて入国したのは、2002年ヨ-ロッパジャパンウイ-ク(JW)がプラハ(prague)で開催され、そのJWの行事が終わってから、イタリアのミラノに入ったのが始めてです。この時は、ミラノ、ベロ-ナ-、ベネチュア、ピサ、ロ-マ-等を観光して廻りましたが、デジタルの一眼レフカメラが世の中に出始めたころで、キャノンの10Dを入手したものの、使い方が不慣れで思うような写真が取れませんでした。それでデジタルのコンパクトカメラで撮影した写真を文章に挿入しています。また、旅の記憶も希薄で思い出しながら書いております。 2002.11.09関西空港で「JR西日本」と「日本旅行」とがコラボして、ものものしい送行会を開いていただき、仏国のドゴ-ル空港に向けて出発した。チェコは東欧州諸国で直接便が有りませんでしたのでフランスを経由してチエコに向かいました。 2002.11.10プラハの初日は、ジャパンウイ-クのプログラムに参加することから始まりました。先ず、市交通局の車庫に集まりオ-プニングセレモニ-。チェコ側から交通局の部長さんが、JRWは矢吹取締役の挨拶がありました。 | ||
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プラハのアンティクトラム |
トラムの前頭部 |
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プラハ市交通局の計らいでアンティ-クトラムを「貸切り」運行していただき、プラハ市内をトラム車窓から観光しました。ヴルタヴァ川がプラハ市内の中央部を流れ、街を東西に分けています。街の中心部は「カレル橋」があるあたりで、中世のバロック様式の建造物やゴシック様式の教会が建ち並び、この町にして「塔」が多かったことが記憶に残っている。 |
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プラハ城 |
聖ヴィ-ト大聖堂 |
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プラハ市内の建物 |
プラハ市内の教会 |
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トラムから降りて市内を歩きました。坂の多い街でした。小さな土産物屋さんが並ぶ路地を歩いていると、画家のような商人が、ひつこく「絵画」を買い求めるように進めてきました。日本人は良く買うらしいのですが、通貨の手持ち合わせがなかったので買わずにその場を去りました。 |
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坂道の路地 |
絵画を売る人 |
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坂を下ってゆくと「カレル橋」のところに出てきました。日本の橋で「擬宝珠」が取りつけてある場所に、素晴らしい彫刻が設置してあります。聴くところによるとプラハの観光はこの「カレル橋」が中心と聴きました。眺める人、写真を撮る人、黙って通り過ぎる人色々で、自動車は通行出来ない歩行者専用の橋でした。 |
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彫刻の有名なカレル橋 |
内容が不気味な意味合いのある彫刻 |
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夜は、プラハ城でJR nightです。チェコの交通局の方、プラハの有識者、学生さんを招いて交流会があり、楽団演奏を聴きながら食事をしました。食事の後は、チェコの民族衣装を着けた人達が民謡を披露してくれました。また、全員でダンス等を楽しみました。プラハ市民とは親睦が図れたものと思います。 |
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PRAGUE JR NIGHT |
PRAGUE JR NIGHT |
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PRAGUE JR NIGHT |
PRAGUE JR NIGHT |
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2002.11.11プラハ空港9:05発 OK718でイタリアのミラノに10:35 到着。ミラノ市内の観光。 |
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ミラノのドゥモウ |
路上に絵かれた模様 |
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2002.11.12専用バスにてベネツュアに向いました。途中、中世のロマンティックな都市ヴェロ-ナの街に寄りました。ここでは、シェクスピアで有名な「ジュリエットの家」とロ-マ-のコロッセオによく似た円形劇場「アレ-ナディ・ヴェロ-ナ」を観光しました。写真を撮る余裕はなかったです。 2002.11.13本日の観光は、ベネチュアです。 |
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リアルト橋 |
ヴェネチュアのガラス工房 |
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2002.11.14~15フィレンツェの市内観光。 | ||
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ピサの斜塔 |
イタリアの誇る高速鉄道ユ-ロスタ- |
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ロ-マ-ではコロッセオ、スペイン広場、トレビの泉を観光して回った。 | ||
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ヴィットリオ.エマヌエ-レ2世記念堂 |
コロッセオ |
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トレビの泉 |
スペイン階段 |
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2002.11.16バチカン国の視察 | ||
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バチカン国入国門 |
バチカン前広場 |
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2002.11.17~18ロ-マからAZ204でロンドンへ。そして、ロンドンから乗り継ぎJL422で関西空港に帰国。 2度目のイタリア訪問2005年 ジャパン・ウイ-クが南イタリアのナポリ「サンエルモ城」で開催される事になりましたが、この年の4月に起こった宝塚線の大事故で、「ジャパン・ウイ-ク」は、(財)日本車輛機械技術協会の主催に代わりました。「ユ-レイル・スピ-ド高速鉄道国際会議及び見本市」と「ジャパンウィ-ク」を兼ねて研修旅行が計画されました。 2005.11.06 (機中)関西空港サロン『飛鳥』で休憩をとり、アリタリア航空AZ795便に搭乗しました。ビジネス座席は総皮張りで豪華なシ-トでした。フット・アップ装置がつき、背もたれを倒すと体がほぼ水平になる位まで倒せる。そして背筋を空気圧で調整できるようになっている。まるで床屋か家庭のマッサ-ジ機に座る心地でしたが、西洋人の体格に合わせて設計されているので、何処と無く身体に添いませんでした。 2005.11.07ミラノの町はドゥオモ【大聖堂・カテドラル(大司教(司教座がある)が居られる教会)】を中心に放射状に拡がっている。旧市街は強固な城壁に囲まれているが、その城壁が所々現存している。その城壁の一部、フランス軍の攻撃に備えてガリバルディ将軍が築いた「スポレツァ-城」から市内観光が始った。 | ||
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スポレツァ-城 |
スポレツァ-城要塞 |
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高さ数十メ-トルに積まれたレンガの城壁には、四角い穴が沢山空いている。此れは城壁を修復するときに足場を組むための穴と説明があった。今は鳩の格好の巣となっている。中庭もある。長方形の池があり、このあたりの城壁にはレンガにモルタルが塗らた形跡もあり一部が残っていた。 | ||
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ミラノ凱旋門 |
旧 ミラノ地図 |
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ミラノ・スカラ座の横でバスを降りた。ここがミラノの中心街で、目抜き通りを散策しながらドゥオモに向った。スカラ座の正面と向き合ってレオナルド・ダビンチの立像がある。 | ||
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ダビンチ立像 |
エマニエル2世騎馬像 |
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この広場からドゥオモ前広場までガラス張りの屋根が続き商店街となっている。イタリアが誇る高級ブランド店がズラリと並んでいる。ドゥオモ前広場には自由憲法と民族解放運動を貫き通し、イタリア近代革命の父と言われるヴィトリオ・エマニエル2世の騎馬像があり、広場のシンボルになっている。 | ||
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ミラノドゥ-モの尖塔 |
ミラノ大聖堂 |
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内部は大きな柱(単なる円柱ではなく断面が花形をしている柱)が大屋根を支えている。キリストが張り付けにされた時に使われた「釘」が祀られている。又、ミラノの守護聖人聖カルロ・ボロメオがミイラとして銀の仮面を着けて祀られていた。ステンドガラスも美しく、下の方から上に向って、聖書を図解しているのが特長である。そして、屋根に1つ穴が開いている。この穴を通して差し込む光が床面を照射する。季節によって太陽の傾きが変わることを利用してその時期にあった「暦の彫刻」が床面に配置されている。照射されているところの図案を見れば、暦を知ることができる。など様々な工夫がなされている。』と説明があった。 | ||
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ミラノ大聖堂 内部(1) |
ミラノ大聖堂 ステントドグラス |
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「ミラノの街は霧の街」と言われるくらいどんよりとした日が多く、今日のような「秋晴れの日」は珍しい。だからファッションの街、ミラノ・コレクションが誕生したのだとガイドが自慢げに話していたが、「霧の街」と「ファッション」とが何処で繋がるのか、今一意味が判らなかった。昼食はパスタ-と白身の魚のソテ-(油炒め)であった。
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コモの街 |
ベランダに飾られた生花鉢 |
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コモの大聖堂 |
コモの街並 |
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夕食はホテルでミラネ-ゼというイタリア料理だった。これはブタ肉の薄切りを叩いて更に薄くしフライに揚げたものであった。 2005.11.08 ミラノ市内にある国際見本市会場で「Eurail Speed Milano 2005 高速鉄道設備・サ-ビス見本市」を視察した。台車・ブレ-キディスク・主幹制御器とスイッチ類・トロリィ-支持金具など、わが社に関係する商品が展示してあった。しかし、大半が写真やビデオを駆使して自国の誇る高速列車を紹介している。模型の電車を展示して、自国の高速電車を紹介するコ-ナ-もあった。この展示会、本来は高速鉄道のシステム及びその技術を売り込むのが目的であるはずなのに商談をしている様子は無く、どちらかと言えば「高速電車に乗ってください。」と言う宣伝に過ぎないと感じた。日本もJRグル-プとして世界に誇る新幹線の模型電車を出展していた。ここは人気が高く大勢の人が興味深そうに見ていたが、説明者が居ないので盛り上がりに欠けていた。 | ||
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ETRの客室 |
座席 |
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昼食は「萬珍楼」という店で中華料理であった。内容を思い出そうとするが、黄色い御粥のようなものがあったような気がする。メインが何んだったか思いだせない。 2005.11.09明けてナポリは快晴。ホテル最上階の食堂のテラスからナポリ市街地・港・ヴェスヴィオ山が綺麗に見られた。今日の予定は、ヴェスヴィオ山が1900年前、空前の大噴火一瞬の間に灰で覆いつくされたポンペイの街(世界遺産)の観光である。ポンペイはナポリから高速道路を利用して東へ45分。ロ-マ-からポンペイまではアッピァ街道を通って3時間たらずの距離にある。 | ||
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ポンペイ遺跡とヴェスビオ山(1) |
ポンペイ遺跡とヴェスビオ山(2) |
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1748年頃水道工事で内陸部の調査をしていたところ、古代の建築構造物が発見されたことから発掘が始まり、現在、全体の三分の一程度の発掘が進んでいる。今も発掘が継続されている。 | ||
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穀物入れの壺 |
石膏で作られた人型 |
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ポンペイ遺跡 |
石膏で作られた人型 |
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エルコラ-ノ門を出たところに、「シーザ-夫人が住んで居られたのではないか?」と言われている屋敷跡がある。この辺りは豪族の別荘が多く建っていたらしい。この屋敷の周囲はスッポリと火山灰で覆い尽くされ、一目で火山灰の多さが予想できる。又、この屋敷の表玄関に当たるところには、火山灰の上に民家が建てられ現在生活しておられるので発掘できない状態である。この屋敷内から18人の犠牲者が発掘されている。屋敷・建物は大変大きくて立派である。奥の客間に当たる部分が正方形をしており、『秘儀荘』の名前で知られている。壁全体には男女間の秘儀が描かれていた。 | ||
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秘儀荘室の絵画 |
カンツォ-ネを聞きながらの食事 |
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近くのレストランPizzeriaで海鮮料理の昼食であった。ゲソのサラダに海鮮(貝)とケチャップのシ-フ-ド・パスタ-それにイカとエビのフライが添えられていた。ギタ-をぶら提げた流しが来て、カンツオ-ネを歌う楽しいひと時でもあった。 | ||
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行進訓練 |
ナポリのプレシビ-ト広場 |
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広場はサン・フランチェスコ教会とパルテ-ノペ王宮に囲まれている。
16:00ホテルに戻り自由時間となる。通貨の両替を兼ねてナポリ港まで歩いた。豪華客船が2艘接岸していた。 2005.11.10ナポリの街はナポリ港を中心に4つの丘陵に囲まれている。その内の一つ、ボンメロの丘陵にはサンテルモ城がある。フランスの王家アンジュウ家が1324~1337年にかけて築城、後にスペインの王家が住むことになる。又、この城が2005年11月ジャパンウイ-クの会場となる。プレシピ-ト広場からサンテルモ城の近くまで地下鉄が通っている。地下鉄工事の際、遺跡が度々出土し調査で工事の中断を余儀無くされ大変であったらしい。又、サンテルモ城に通じる道路は小さな石を並べた石畳で、補修工事に大変費用が掛かるけれど景観が壊れると言ってアスファルトにはしない。何によりも交通渋滞のすごい事と運転技術のレベルが高いというか? 荒っぽいことには驚いた。城の中では特に見学するところはないらしく、屋上までエレベ-タで上り、ナポリの市街を一望する。素晴らしい景色である。白壁に緑色で縁取りした窓・エンジ色の壁に白色で縁取りした窓・ベ-ジュの壁に緑色で縁取りした窓・レンガ色・ピンク色等などのカラフルな色彩の家屋が朝日に輝き、海の青と調和して見事な美しさであった。バルコニ-には植木や生花が飾られ、美観を一層盛り立てている。「ナポリを見てから死ね!」の諺がよく理解できた。 | ||
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ヘヴェスビオ山から登る朝日 |
ナポリ市内の景色 |
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ナポリ市内 |
ナポリの港 |
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サンテルモ城を後にし、一路マテ-ラ(Matera)へ出発する。 | ||
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マテ-ラの要塞 |
廃墟となった住居 |
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パンダを形取ったプリン |
マテ-ラ料理のサ-ビス |
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マテ-ラに最初に人類が定住したのは旧石器時代とされている。谷や峡谷も昔は森に覆われ、渓流が流れ、凝灰岩の岩盤上で生活していたと想像できる。「サッシ」と呼ばれる岩穴住居群はマテ-ラの中でも最も古くから住み着いた地区で、今では時の流れで完全に隔離されひっそりと静まりかえって古代にタイムスリップしている。 | ||
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マテ-ラの岩穴居住群(サッシ) |
岩穴住居内部(観光用) |
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マテ-ラのドゥオモ(大聖堂)を起点に観光ル-トに沿って歩いていると、観光用に展示している岩穴住居があった。中に入れば15畳位の間仕切りのない部屋と奥に四畳位の部屋がある。壁面は白く漆喰が塗られて綺麗にしてある。ベットに箪笥、最小限の生活が出来る用具は揃えてある。ベットの下の部分は子供用の寝具がしまえるように空間を最大限に利用している。手織りの織機まで置いてあり、家庭の原点を象徴するようであった。だが部屋の片隅には馬も繋がれて人間と一緒の生活である。換気も採光も入り口1か所だけで、空気が入れ替わらない。非衛生の極まりない。疫病が発生すればどうなるのか?心配した。また、個人のプライベ-トが守られ難く、その為、全てのものを分け会うことで結束の絆ができ、これが社会性となって根付いていったようである。 | ||
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マテ-ラの大聖堂 |
マテ-ラの街 |
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17:00を過ぎ、少し肌寒くなってきたがアルベロベッロに向けて出発した。暗闇の中をバスで1時間半走り、アルベロベッロのグランドホテル・ラ・チウサ・デ・チェトリ(Grand Hotel La Chiusa Di Chietri)に19:00頃到着。小休止してホテルでの食事となる。マカロニ-とトマト・ケチャップミ-ト・それにフル-ツ(パイナップル)を味わった。 2005.11.10アルベロベッロ(Alberobello)とは美しい木(即ちオリーブの木をさす)を意味する。
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アルベロベッロのトゥル-リの家 |
トゥル-リの構造 |
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トゥル-リは石で積み上げた強固な基礎の壁に、石を円錐状に積み上げて屋根を作るのだが、中東から移住してきた原住民は、死者を葬るのに石を積み上げて墓石を作る技術を身に着けていた。それを応用して作ったのが始まりで、次第に洗練されたものに成ってきたと説明を受けた。円形や長方形の壁を作りこれを基礎として、天井部分を積み上げる。屋根は、瓦に相当する部分、土や砂で固める部分、基礎になる石の部分と3層になっていて、なんとその厚さ80cmになっているそうだ。空間を保つため、4本の柱でロマネスク様式のア-チを作り、丸天井の下支えとしているものもあるが、殆どか石組みだけで支えられている。円錐状に積まれる石はキャンカ-レッレッと言う石灰岩で薄く剥がれる性質を利用している。内面は石灰石と消石灰を粉末にして練り合わせ塗ってある。トゥル-リの頂上には小尖塔(ピンナ-コロ)を立てている。これは、太陽崇拝、或いは魔よけの意味があり、家の屋根に重圧をかけ強度を高めている。又、屋根に漆喰で描かれた図案は、その家の思想や信仰上の願望を表したものである。 | ||
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アルベロベッロのトゥル-リの家 |
アルベロヘッロの街並み |
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このブ-リア地方は、ナポリによって支配されていた。新しい家を作るときは必ずナポリの法律に従わなければならなかった。ナポリの法律では家を建てる場合許可を必要とした。これは税金の取立てを確実に実施するのが目的であった。そこで地元の有力者ジャン・ジィロラモ伯爵は新しい建物にモルタルを使用せず解体しやすい構造にして,ナポリの税の査察官が来る前に壊してしまい、査察官が立ち去った後、再度造り直すことが容易な建物とした。これは、脱税には大成功であったが、脱税行為が発覚して、伯爵は拘留されてしまう。伯爵の孫が実権を握ってこの町を支配した。若い権力者は暴君で住民の不平不満が蓄積した。その後スペインの支配下となり、1550年スペイン王フェナンド4世がこの地を訪れた際、住民の代表が伯爵の悪政治を不満と訴えた。王に聞き入れられて悪政は排除され、届出制度も廃止された。この時からトゥル-リの建築が本格的になった。 メルヘンチックな町並みとも別れ、バスでバリ-(Bari)に移動する。 2005.11.13バチカン市王国は3年前にも訪れたことがある。バチカン博物館・システ-ヌ礼拝堂を通ってサン・ピエトロ大聖堂に至る一連の観光ル-トである。 | ||
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サン・ピエトロ大聖堂 |
バチカン博物館 天井 |
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博物館は、バロック様式の建物で、先ず、ロ-マ時代の大理石の彫刻が陳列されている。壁面・天井には世界最高級の絵画がある。絨毯の壁掛けもある。いずれも聖書を題材にしている絵が描かれている。床はモザイクで幾何学模様が描かれている。青色のトルコ石で描かれた国旗の箇所は、柵が設けてあって踏まれないように囲われていた。絵画の展示室を過ぎると、システィ-ヌ礼拝堂へと導かれる。此処にはかの有名なミケランジェロの大作『最後の審判』がある。ミケランジェロの作品にしては異風で力強い(筋肉質の)人が書かれているが、この時代の社会情勢を考慮してこのような絵になったと言われている。上段は極楽の図を、下段には地獄の有様を、聖書を題材にして描いたと言われている。中央付近にはミケランジェロの自画像が描いてあるが、自筆のサイン代わりに挿入したもので、この時代の流行であった。他の壁面にも聖書を題材にした最高級の絵画が展示してあるが、2番目のポッテチェリ-の絵が特に興味があって良かった。礼拝堂を過ぎるとサンピエトロ大聖堂でカトリックの総本山である。カトリック教の最高顧問枢機教が居られるところである。明日(日曜日)ミサが行われる。大聖堂の内陣に入ると、先ず、ミケランジェロの彫刻が目につく。 | ||
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ミケランジェロのマリア像 |
聖人のミイラ |
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聖人像の彫刻を数体見た後、祭壇に祈りを奉げる。内陣内では大声が出せないので説明はなかった。 | ||
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サンピエトロ広場 |
サンピエトロ広場 |
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昼食はホテル近くの中華レストランで「ラ-メン」と「焼き飯」、それに「野菜炒め」をいただいた。 | ||
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コロッセオ 外観 |
Colosseum内部 |
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ヴェスヴィオ火山が大噴火した翌年にコロッセオは出来ている。コロッセオの中に入ったのは初めてで、この当時、世界で一番大きかった闘技場である。王様の目前で、惨酷にも勇敢な剣闘士同士の戦いや、剣闘士と猛獣(ライオン)と戦いが連日行われたようである。猛獣達が地下の檻のなかで出番を待ち、セリで戦いの場に導かれる様子の説明を聞くと、実践さながらの状況が想像され、迫力を感じながら舞台を見入った。 真実の口は、サンタ・マリア・イン・コスメディン教会の壁面の一部にある。大理石で造ったライオンの彫刻である。昔はライオンの口の部分から水が出ていたのではないかおもえるが水には全く関係なく、「悪い人,嘘をつく人、があのライオン口に手を入れると抜けなくなる。噛み切られる。」と言い伝えられている。たしか「ロ-マ-の休日」でもそうだったと思うが、此処に来る人は殆どが観光客で、そのライオンの口に手を入れる為、列を作って並んで待っている。幸いこの腕、この指が無事であった。 | ||
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真実の口 |
コ-マ-の凱旋門 |
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トレビの泉はバロック様式の建物の傍に「聖人像三体と馬と馬使いの像2組」の彫刻。作者は誰か聞いていないが、バロック芸術の最高峰と言われている。 | ||
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トレビの泉 |
トレビの泉 |
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ロ-マ-には遺跡と夢がいっぱいある。暫く逗留してじっくり味わいたかった。 | ||
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テルミ駅 |
テルミ駅玄関 |
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近年大きくリニュ-アルされたテルミ駅を視察するつもりできて、本来ならばゆっくりと施設を視察し、人々の流れや利便性等見ておくべきところですが、三越百貨店が歩いて15分のところにあると聞いて、お土産物や他の買物に走ってしまった。 2005.11.14~15ホテルからロ-マ-空港に直行した。ロ-マ-空港からアリタリア航空AZ1038便にてミラノのマルペンサ空港に寄り、AZ794便(11:45発)にて帰国の途に着いた。 ----------おわり----------
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