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チェコとイタリアの世界遺産をめぐる旅

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はじめに

 イタリアに始めて入国したのは、2002年ヨ-ロッパジャパンウイ-ク(JW)がプラハ(prague)で開催され、そのJWの行事が終わってから、イタリアのミラノに入ったのが始めてです。この時は、ミラノ、ベロ-ナ-、ベネチュア、ピサ、ロ-マ-等を観光して廻りましたが、デジタルの一眼レフカメラが世の中に出始めたころで、キャノンの10Dを入手したものの、使い方が不慣れで思うような写真が取れませんでした。それでデジタルのコンパクトカメラで撮影した写真を文章に挿入しています。また、旅の記憶も希薄で思い出しながら書いております。
 二度目に訪問したのは2005年にJWが南イタリアのナポリで開催された時です。この時もミラノに入国し、ミラノからスイス国境のコモ湖リゾ-ト地を観光、そしてロ-マ-、ナポリ、ポンペイ、マテ-ラ、アルベロベロ、バリ-等を観光して廻りました。

2002.11.09

関西空港で「JR西日本」と「日本旅行」とがコラボして、ものものしい送行会を開いていただき、仏国のドゴ-ル空港に向けて出発した。チェコは東欧州諸国で直接便が有りませんでしたのでフランスを経由してチエコに向かいました。

2002.11.10

プラハの初日は、ジャパンウイ-クのプログラムに参加することから始まりました。先ず、市交通局の車庫に集まりオ-プニングセレモニ-。チェコ側から交通局の部長さんが、JRWは矢吹取締役の挨拶がありました。
その後、車庫内に留置されているトラムを自由に見学させていただきましたが、電車(アンティ-クトラム)の整備は確りとされており、昔の京都市電を思い出し懐かしく観させていただきました。

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プラハのアンティクトラム
トラムの前頭部

プラハ市交通局の計らいでアンティ-クトラムを「貸切り」運行していただき、プラハ市内をトラム車窓から観光しました。ヴルタヴァ川がプラハ市内の中央部を流れ、街を東西に分けています。街の中心部は「カレル橋」があるあたりで、中世のバロック様式の建造物やゴシック様式の教会が建ち並び、この町にして「塔」が多かったことが記憶に残っている。

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プラハ城
聖ヴィ-ト大聖堂
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プラハ市内の建物
プラハ市内の教会

トラムから降りて市内を歩きました。坂の多い街でした。小さな土産物屋さんが並ぶ路地を歩いていると、画家のような商人が、ひつこく「絵画」を買い求めるように進めてきました。日本人は良く買うらしいのですが、通貨の手持ち合わせがなかったので買わずにその場を去りました。

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坂道の路地
絵画を売る人

坂を下ってゆくと「カレル橋」のところに出てきました。日本の橋で「擬宝珠」が取りつけてある場所に、素晴らしい彫刻が設置してあります。聴くところによるとプラハの観光はこの「カレル橋」が中心と聴きました。眺める人、写真を撮る人、黙って通り過ぎる人色々で、自動車は通行出来ない歩行者専用の橋でした。
彫刻は街の至る所でも見かけましたが、殺伐とした不気味な意味合いのある彫刻が多く、何かの戒めと思ったほどです。

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彫刻の有名なカレル橋
内容が不気味な意味合いのある彫刻

夜は、プラハ城でJR nightです。チェコの交通局の方、プラハの有識者、学生さんを招いて交流会があり、楽団演奏を聴きながら食事をしました。食事の後は、チェコの民族衣装を着けた人達が民謡を披露してくれました。また、全員でダンス等を楽しみました。プラハ市民とは親睦が図れたものと思います。

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PRAGUE JR NIGHT
PRAGUE JR NIGHT
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PRAGUE JR NIGHT
PRAGUE JR NIGHT

2002.11.11

プラハ空港9:05発 OK718でイタリアのミラノに10:35 到着。ミラノ市内の観光。
ミラノ駅前にあったと記憶していますが、先ずドゥモウとア-ケ-ド街を観光しました。ミラノのオペラ座もあったようにも思いますが工事中だったと思います。 ファッションの街らしく、街ゆく女性の姿が素敵だった印象に残ります。ビットリオ・エマニエル2世ア-ケ-ド街にはフェラガモやプラダの店がありました。路上に世界地図が書いてあり、「中心に足を乗せ、身体を一回転すれば、世界一周したことになる。」と言って楽しんでいた人がありました。
ドゥモウはとにかく角広かった。だから通年修膳しているようです。
この他、ミラノでは、スポレツェア-城も観光しましたが後半に記します。

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ミラノのドゥモウ
路上に絵かれた模様

2002.11.12

専用バスにてベネツュアに向いました。途中、中世のロマンティックな都市ヴェロ-ナの街に寄りました。ここでは、シェクスピアで有名な「ジュリエットの家」とロ-マ-のコロッセオによく似た円形劇場「アレ-ナディ・ヴェロ-ナ」を観光しました。写真を撮る余裕はなかったです。

2002.11.13

本日の観光は、ベネチュアです。
ベネチュアと言えば、直ぐに思いだすのがサンマルコ広場と「サンマルコ寺院」それに「ドゥカ-レ宮殿」ですが、歩きながらの観光となりました。写真を撮れる余裕がありませんでした。
ベネチュアの象徴とでも云える「リアルト橋」で休憩し、屋根付きで石造りのV字型の橋を観光しました。綺麗なア-チ状の欄干も良ったです。橋の下を大型船が通ることも考えてのことでしょうか?水面からはかなり高い橋です。この街にとてもよく似合う橋でした。
次に、ベネチュアングラスの工房を訪ねました。特に「ここが良い」というところはありませんが、金細工とコラボした美しいガラス製品が陳列してあり心惹かれましたが、道中破損すると思ったので買えなかった。

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リアルト橋
ヴェネチュアのガラス工房

2002.11.14~15

フィレンツェの市内観光。
フィレンツェに到着して少し高いところに上り、周囲を見渡たしますと、大聖堂のド-ムと赤褐色の瓦屋根の家屋が並んでいる景色が目に入ります。イタリアで最も美しい都市の一つがフィレンツェです。
街を歩いてもルネサンス時代の建物が沢山あり、ミケランジェロ作と言われる彫刻が街のあちこちに設置されています。礼拝堂の扉には、キリストの生涯が描かれた彫り物があり、ウィフィツィ美術館では、メジッチ家のコレクションが展示してあります。特に、ポッテチェリ-の「ヴィ-ナス誕生」が心に残っています。
芸術の都フィレンツェを観光した後は、ピサの街に向かいました。
ピサの斜塔は、ピサの大聖堂の鐘楼です。ピサのドゥモウ広場を構成する観光のスポットになっています。建物の地盤が不均衡で、南側に4~5度傾いています。再三、傾斜を治す工事を試みられたようですが成功せず、不等沈下の事例として現在に残っています。
その昔、ガリレオ・ガリレイが物体の落下実験を行ったというエピソ-トがあるようですが「創作説」のようでもあります。実際、物を落とすと何かに引っかかるようにも思えました。
ピサの観光を済ませ、再びフェレンツェに戻り、イタリアが誇る高速列車ユ-ロスタ-でロ-マ-に入りました。

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ピサの斜塔
イタリアの誇る高速鉄道ユ-ロスタ-

ロ-マ-ではコロッセオ、スペイン広場、トレビの泉を観光して回った。

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ヴィットリオ.エマヌエ-レ2世記念堂
コロッセオ
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トレビの泉
スペイン階段

2002.11.16

バチカン国の視察

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バチカン国入国門
バチカン前広場

2002.11.17~18

ロ-マからAZ204でロンドンへ。そして、ロンドンから乗り継ぎJL422で関西空港に帰国。



2度目のイタリア訪問

2005年 ジャパン・ウイ-クが南イタリアのナポリ「サンエルモ城」で開催される事になりましたが、この年の4月に起こった宝塚線の大事故で、「ジャパン・ウイ-ク」は、(財)日本車輛機械技術協会の主催に代わりました。「ユ-レイル・スピ-ド高速鉄道国際会議及び見本市」と「ジャパンウィ-ク」を兼ねて研修旅行が計画されました。

2005.11.06 (機中)

関西空港サロン『飛鳥』で休憩をとり、アリタリア航空AZ795便に搭乗しました。ビジネス座席は総皮張りで豪華なシ-トでした。フット・アップ装置がつき、背もたれを倒すと体がほぼ水平になる位まで倒せる。そして背筋を空気圧で調整できるようになっている。まるで床屋か家庭のマッサ-ジ機に座る心地でしたが、西洋人の体格に合わせて設計されているので、何処と無く身体に添いませんでした。
離陸後、水平飛行になれば直ぐに昼食が用意されました。メイン料理は肉か魚かチョイスできましたが、客室乗務員が私達の席に注文を聞きにまわって来られた時には肉料理は品切れになり、白身の魚料理しか残っていなかった。「後部席から回ってくればいいのに」と言って女房は不機嫌になり、「肉でも魚でも機内食の味はたいしたことはない。好きなものだけ食べればいいのに」と言えば更に不機嫌さが増長するので云わなかった。それから5~6時間フライトしたところで、今度はケ-キとお茶のサ-ビスがあったが、お茶よりワインをリクエストして眠るように心掛けました。眠ったり、ウロウロ歩いたり、軽い運動をしながら10時間が経過した。今度は夕食が用意された。メインはエビ・ホタテ・鮭・鯛の身を串に刺し、バタ-で炒めて、ホワイトソ-スがかかっていました。見た目は美味しそうでしたが、口にすると賞賛できたものでない。
機内の明るさは、食事時以外は、人の顔がかすかに見える程度に薄暗くしてあった。眠る人、テレビの映画を見ている人、飛行行程を見て愉しんでいる人様々でした。
11月6日の14:00離陸。関西空港から新潟方向に飛行し、日本海に抜けて佐渡上空を、そしてハバロスク・ロシアのツンドラ地帯の上空を飛行してバルト海へ、ストックホルム・コペンハ-ゲン・ハンブルク・チュ-リッヒの上空を飛行、そしてミラノ・マルペンサ国際空港に着陸したのがPM18:02(日本時間7日AM02:02)12時間の飛行でした。大陸の上空を飛行はじめてからは殆ど厚い雲の上を飛び、地上は何も見えない。窓をあけると「雲平線と言うのだろうか?」雲と空とに2分され、雲の部分は黒く空の部分は夕陽で真赤に染まり、地上では見られないそれは美しい輝きでした。バルト海の上空にやって来ると地上の景色が見え出し、海岸線や点在する島々が薄らと視界に入りました。
ミラノ・マルペンサ空港からミラノ市内のMilan Marriott Hotel に直行した。部屋に案内され窓から玄関のアプロ-チを見ていると、3年前にもこのホテルに泊まったような記憶が蘇って来た。
夜食代わりに用意された「おにぎり」は、お米は硬く塩が良く効いていた。「玉子やき」と「鳥のから揚げ」が添えられていて空腹だったので美味しかった。

2005.11.07

ミラノの町はドゥオモ【大聖堂・カテドラル(大司教(司教座がある)が居られる教会)】を中心に放射状に拡がっている。旧市街は強固な城壁に囲まれているが、その城壁が所々現存している。その城壁の一部、フランス軍の攻撃に備えてガリバルディ将軍が築いた「スポレツァ-城」から市内観光が始った。

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スポレツァ-城
スポレツァ-城要塞

高さ数十メ-トルに積まれたレンガの城壁には、四角い穴が沢山空いている。此れは城壁を修復するときに足場を組むための穴と説明があった。今は鳩の格好の巣となっている。中庭もある。長方形の池があり、このあたりの城壁にはレンガにモルタルが塗らた形跡もあり一部が残っていた。
レオナルド・ダビンチもこの城にご奉公をしていたようだ。彼の使っていた部屋がミニ博物館となっている。ダビンチは芸術だけでなく医学・天文学そして戦略にも優れた才能があったため重宝がられた存在であった。
城壁の更に北側に立派な凱旋門も造くられていた。中世の映画が脳裏に浮かび、戦勝した騎馬兵士が凱旋する様子が頭に浮かんだ。

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ミラノ凱旋門
旧 ミラノ地図

ミラノ・スカラ座の横でバスを降りた。ここがミラノの中心街で、目抜き通りを散策しながらドゥオモに向った。スカラ座の正面と向き合ってレオナルド・ダビンチの立像がある。

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ダビンチ立像
エマニエル2世騎馬像
  

この広場からドゥオモ前広場までガラス張りの屋根が続き商店街となっている。イタリアが誇る高級ブランド店がズラリと並んでいる。ドゥオモ前広場には自由憲法と民族解放運動を貫き通し、イタリア近代革命の父と言われるヴィトリオ・エマニエル2世の騎馬像があり、広場のシンボルになっている。
ドゥオモ(ミラノ大聖堂)は全体が大理石で造られたゴシック様式の建築で15~16世紀に500年の歳月を掛けて完成している。19~20世紀になって、修復工事が行なわれているが、現在でも正面の壁面には全面シ-トが覆われていた。
建物の外観には、2,245の聖人像の彫刻があり、ドゥオモ建築のファッションになっている。中央ド-ムの尖端にはマドニ-ナ(女王)像がある。これがミラノ市のシンボルで金色の輝きを見せている。

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ミラノドゥ-モの尖塔
ミラノ大聖堂
                       

内部は大きな柱(単なる円柱ではなく断面が花形をしている柱)が大屋根を支えている。キリストが張り付けにされた時に使われた「釘」が祀られている。又、ミラノの守護聖人聖カルロ・ボロメオがミイラとして銀の仮面を着けて祀られていた。ステンドガラスも美しく、下の方から上に向って、聖書を図解しているのが特長である。そして、屋根に1つ穴が開いている。この穴を通して差し込む光が床面を照射する。季節によって太陽の傾きが変わることを利用してその時期にあった「暦の彫刻」が床面に配置されている。照射されているところの図案を見れば、暦を知ることができる。など様々な工夫がなされている。』と説明があった。

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ミラノ大聖堂 内部(1)
ミラノ大聖堂 ステントドグラス

「ミラノの街は霧の街」と言われるくらいどんよりとした日が多く、今日のような「秋晴れの日」は珍しい。だからファッションの街、ミラノ・コレクションが誕生したのだとガイドが自慢げに話していたが、「霧の街」と「ファッション」とが何処で繋がるのか、今一意味が判らなかった。昼食はパスタ-と白身の魚のソテ-(油炒め)であった。
昼食後は、ミラノ市内で買い物(自由時間)をするグル-プとコモの街へ観光に行くグル-プに別れたので、「コモの街観光グル-プ」に加わった。バスで北方に1時間ほど走ったところにコモ(COMO)の街がある。
周囲を山で囲まれ,大自然にできたダムのような「コモ湖」。避暑地としてセレブが別荘を建て、次第に発展して栄えたリゾ-ト街である。カラフルな家が建ち並び、湖面や周囲の山々と調和して大変美しい静かな街だ。シ-ザ-も住んでいたこともあり、凱旋した時に通った街道も「シ-ザ-街道」として名前が残っている。
街の端から端迄歩いて行けるほど小さい街で、城壁の一部が一般家屋の壁として利用している処もある。大聖堂もあり、ムッソリ-ニの独裁政治の時、敢えて透明性を強調して建てた指令所(官舎)まで現存する。また、各家のテラスに作られた鉄筋製のベランダも芸術性に富み、生花が鉢植えにして飾られていた。
コモの北はスイス国境でアルプスの山々の姿が見え隠れしていた。

 
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コモの街
ベランダに飾られた生花鉢
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コモの大聖堂
コモの街並

夕食はホテルでミラネ-ゼというイタリア料理だった。これはブタ肉の薄切りを叩いて更に薄くしフライに揚げたものであった。

2005.11.08

 ミラノ市内にある国際見本市会場で「Eurail Speed Milano 2005 高速鉄道設備・サ-ビス見本市」を視察した。台車・ブレ-キディスク・主幹制御器とスイッチ類・トロリィ-支持金具など、わが社に関係する商品が展示してあった。しかし、大半が写真やビデオを駆使して自国の誇る高速列車を紹介している。模型の電車を展示して、自国の高速電車を紹介するコ-ナ-もあった。この展示会、本来は高速鉄道のシステム及びその技術を売り込むのが目的であるはずなのに商談をしている様子は無く、どちらかと言えば「高速電車に乗ってください。」と言う宣伝に過ぎないと感じた。日本もJRグル-プとして世界に誇る新幹線の模型電車を出展していた。ここは人気が高く大勢の人が興味深そうに見ていたが、説明者が居ないので盛り上がりに欠けていた。
Porta Garibaldi駅に移動しイタリアが誇る高速車輛「ETR-500」や最新型の高速列車6種類を視察した。ドア-の開閉装置が歯車構造で目新しいものではない。客室は、お国柄明るくデザインされ、座席のテ-ブルと足置きは工夫が見られた。

                                
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ETRの客室
座席

昼食は「萬珍楼」という店で中華料理であった。内容を思い出そうとするが、黄色い御粥のようなものがあったような気がする。メインが何んだったか思いだせない。
午後は、移動でMilano Linate空港からナポリ・カポディキ-ノ-空港に入り、市内のルネッサンスメディテラオネ・ホテル(Renassance Naples Mediterraneo Hotel)に直行。
夕食までに時間が少しあったので街を歩いた。衣料品と食べ物屋が多かった。また、露天商が多く「高級ブランド品のパッチ物」を沢山並べて売っていたのには驚いた。時間が経つにつれて大勢の人達で賑わいだし「君子危うきに近寄らず」ホテルに戻った。夕食は、レストランに行き、ピザと鮭のムニエルの御馳走だ。

2005.11.09

明けてナポリは快晴。ホテル最上階の食堂のテラスからナポリ市街地・港・ヴェスヴィオ山が綺麗に見られた。今日の予定は、ヴェスヴィオ山が1900年前、空前の大噴火一瞬の間に灰で覆いつくされたポンペイの街(世界遺産)の観光である。ポンペイはナポリから高速道路を利用して東へ45分。ロ-マ-からポンペイまではアッピァ街道を通って3時間たらずの距離にある。
『西暦79年8月24日午後12時30分 ヴェスヴィオ山の突然の大噴火により、ポンペイの街は、一瞬にして火山灰・火山礫・溶岩流で覆いつくされ、6M~12Mの灰が堆積して街全体が埋め尽くされてしまいました。』この言葉をガイドさんから何回か聞かされた。

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ポンペイ遺跡とヴェスビオ山(1)
ポンペイ遺跡とヴェスビオ山(2)

1748年頃水道工事で内陸部の調査をしていたところ、古代の建築構造物が発見されたことから発掘が始まり、現在、全体の三分の一程度の発掘が進んでいる。今も発掘が継続されている。
ポンペイ港に近接した高さ40~50メートルの丘陵にできた街で、マリーナ門を潜り抜けると急な坂道がある。この坂道を登りきったところに広場がある。ヨ-ロッパの都市形成の特徴で、一番高いところに、広場と神殿(或いは大聖堂)を設置し、これを中心に放射状に奥地の方に広がりを見せている。飲食店・パン屋・公衆浴場・公衆便所等が発掘されている。町外れには劇場があるようだ。道路も整備され、道路わきの石には、牛や馬を繋ぐ為、石に穴まであけられていた。穀物倉庫には、穀物を入れる壷が其の儘棚に並べて置いてある。何よりも感動したのは石膏で固められた人形である。それは突然に火山灰や溶岩流が覆い被さり、人は逃げ場を失い苦しみもがきながら死んでゆく。身体は蒸し焼きとなって火山灰の中で空洞になり骨だけが残っている。そこに石膏を流し込めば、悲惨な姿で亡くなられた儘の人形が作られる。その人形が何体も陳列してあった。想像すると身震いし目頭が熱くなった。それにしても石膏を流し込む発想はすごい思いつきである。

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穀物入れの壺
石膏で作られた人型
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ポンペイ遺跡
石膏で作られた人型

エルコラ-ノ門を出たところに、「シーザ-夫人が住んで居られたのではないか?」と言われている屋敷跡がある。この辺りは豪族の別荘が多く建っていたらしい。この屋敷の周囲はスッポリと火山灰で覆い尽くされ、一目で火山灰の多さが予想できる。又、この屋敷の表玄関に当たるところには、火山灰の上に民家が建てられ現在生活しておられるので発掘できない状態である。この屋敷内から18人の犠牲者が発掘されている。屋敷・建物は大変大きくて立派である。奥の客間に当たる部分が正方形をしており、『秘儀荘』の名前で知られている。壁全体には男女間の秘儀が描かれていた。

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秘儀荘室の絵画
カンツォ-ネを聞きながらの食事

近くのレストランPizzeriaで海鮮料理の昼食であった。ゲソのサラダに海鮮(貝)とケチャップのシ-フ-ド・パスタ-それにイカとエビのフライが添えられていた。ギタ-をぶら提げた流しが来て、カンツオ-ネを歌う楽しいひと時でもあった。
午後はナポリ市内に戻り観光した。先ず、海に突き出た玉子城を最上部迄登り、風光明媚なナポリ市内を眺めた。城の中は特に見るものはなかった。小さな部屋は事務所とか喫茶店として利用されていた。
この城を出て、プレシピ-ト広場まで繁華街を歩きながら観光した。サッカ-のボ-ルが足元に転がってくる。ボールを拾いにきた子供に返してやると、あどけなく「なかた・グラッチェ」といって又遊んでいる。日本人と判ったのだろうか? 人懐っこい一面を見た。 プレシピ-ト広場では軍隊の新兵が行進の訓練中であった。

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行進訓練
ナポリのプレシビ-ト広場

広場はサン・フランチェスコ教会とパルテ-ノペ王宮に囲まれている。 16:00ホテルに戻り自由時間となる。通貨の両替を兼ねてナポリ港まで歩いた。豪華客船が2艘接岸していた。
今夜の食事はピサで小鰯が3匹載せてあり、他に鳥の唐揚げがついていた。

2005.11.10

ナポリの街はナポリ港を中心に4つの丘陵に囲まれている。その内の一つ、ボンメロの丘陵にはサンテルモ城がある。フランスの王家アンジュウ家が1324~1337年にかけて築城、後にスペインの王家が住むことになる。又、この城が2005年11月ジャパンウイ-クの会場となる。プレシピ-ト広場からサンテルモ城の近くまで地下鉄が通っている。地下鉄工事の際、遺跡が度々出土し調査で工事の中断を余儀無くされ大変であったらしい。又、サンテルモ城に通じる道路は小さな石を並べた石畳で、補修工事に大変費用が掛かるけれど景観が壊れると言ってアスファルトにはしない。何によりも交通渋滞のすごい事と運転技術のレベルが高いというか? 荒っぽいことには驚いた。城の中では特に見学するところはないらしく、屋上までエレベ-タで上り、ナポリの市街を一望する。素晴らしい景色である。白壁に緑色で縁取りした窓・エンジ色の壁に白色で縁取りした窓・ベ-ジュの壁に緑色で縁取りした窓・レンガ色・ピンク色等などのカラフルな色彩の家屋が朝日に輝き、海の青と調和して見事な美しさであった。バルコニ-には植木や生花が飾られ、美観を一層盛り立てている。「ナポリを見てから死ね!」の諺がよく理解できた。
このようなわけJWへの行事に参加することもなかったし次の旅行行程になった。

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ヘヴェスビオ山から登る朝日
ナポリ市内の景色
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ナポリ市内
ナポリの港

サンテルモ城を後にし、一路マテ-ラ(Matera)へ出発する。
マテーラはイタリア半島を長靴の形であらわせば土踏まずの位置にあたる。高速道路を利用して4時間余り要する。車窓からは、美しい「ソレント」の海岸線が眺められる。「ソレント」と聞けば「帰れ!ソレントへ」の民謡を思い浮かべるが、ナポリには他にも「フニクリ・フニクラ」や「カプリ島」など軽快な民謡があり、心の中でハモリながらの快適なドライブを愉しんだ。山の中腹を這うようにして高速道路は通っている。高原を走るようになってからは、牧草畑が広がる。松の木・オレンジの木・ブドウの木・野菜畑・雑木林・サボテンが観られた。中国桂林の岩山に似た景色も見られた。
マテ-ラは要塞の麓に到着した。昼食の予約時間は遥かに過ぎていたので、急いでレストランに行った。昼食は茄子を薄切にして焼いたものとメインにはポ-ク・ソ-セ-ジにトマトケチャップを掛けたものだった。マテ-ラはジェラ-トアイスクリ-ムが美味しいと聞かされていたが、デザ-トはパンダを形取ったプリンだった。 (ジェラ-トとはメジッチ家のデザ-トから語源が発生したと聞かされた。)

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マテ-ラの要塞
廃墟となった住居
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パンダを形取ったプリン
マテ-ラ料理のサ-ビス

マテ-ラに最初に人類が定住したのは旧石器時代とされている。谷や峡谷も昔は森に覆われ、渓流が流れ、凝灰岩の岩盤上で生活していたと想像できる。「サッシ」と呼ばれる岩穴住居群はマテ-ラの中でも最も古くから住み着いた地区で、今では時の流れで完全に隔離されひっそりと静まりかえって古代にタイムスリップしている。
岩穴に住んでいた人達は生活水準も低く、苦しい生活を強いられた農民や低賃金の労働者等の下層階級の人々で、崩れかかった住居の改築工事も充分にされないまま岩穴住居に住み着いた。
凝灰岩を堀った(くりぬいた)数々の岩穴居住群はユネスコの世界の文化遺産に登録されている。
第2次世界大戦後、住居を求めて1万余りの人がこの地に流れ込んで貧民集団となった。文化遺産を守ろうとするマテ-ラの住民達によって1975年「サッシ再活性化のための都市計画」、1986年「政府によるサッシ保存に関する特別条例」等が公布されて、都市の再建に必要な基盤が整理された。そして徐々に新しい都市部に変わってゆき1996年には、すべての人々が新しい住居に変わった。最近では廃墟を見直し、民宿や商店街をつくり、観光資源として再利用も考えていると説明があった。

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マテ-ラの岩穴居住群(サッシ)
岩穴住居内部(観光用)

マテ-ラのドゥオモ(大聖堂)を起点に観光ル-トに沿って歩いていると、観光用に展示している岩穴住居があった。中に入れば15畳位の間仕切りのない部屋と奥に四畳位の部屋がある。壁面は白く漆喰が塗られて綺麗にしてある。ベットに箪笥、最小限の生活が出来る用具は揃えてある。ベットの下の部分は子供用の寝具がしまえるように空間を最大限に利用している。手織りの織機まで置いてあり、家庭の原点を象徴するようであった。だが部屋の片隅には馬も繋がれて人間と一緒の生活である。換気も採光も入り口1か所だけで、空気が入れ替わらない。非衛生の極まりない。疫病が発生すればどうなるのか?心配した。また、個人のプライベ-トが守られ難く、その為、全てのものを分け会うことで結束の絆ができ、これが社会性となって根付いていったようである。
観光ル-トを一巡し、最後に岩窟教会を観光した。暗闇で判り難かったが、壁画から推察して、東アジアの修道僧が、凝灰岩を彫り抜いた洞窟の穴に祈りの場を求めて作ったと考えられる。このような岩窟教会が僧の出身地ごとに作ったらしく、150ケ所はあると聞かされた。

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マテ-ラの大聖堂
マテ-ラの街

17:00を過ぎ、少し肌寒くなってきたがアルベロベッロに向けて出発した。暗闇の中をバスで1時間半走り、アルベロベッロのグランドホテル・ラ・チウサ・デ・チェトリ(Grand Hotel La Chiusa Di Chietri)に19:00頃到着。小休止してホテルでの食事となる。マカロニ-とトマト・ケチャップミ-ト・それにフル-ツ(パイナップル)を味わった。

2005.11.10

アルベロベッロ(Alberobello)とは美しい木(即ちオリーブの木をさす)を意味する。
イタリア半島の長靴のカガト部分に当たる。アドリア海に面したプーリア地方のムルージャと呼ばれる高いところ(海抜420M)にあって、谷間を挟んで2つの丘がある。北側はアイア・グレ-ト地区といって、大聖堂や近代的な建物が立ち並んでいる。一方、南側の丘は、アイア・ピッコロ地区といって、丘陵の斜面に沿って古代住居のトゥル-リの家が立ち並び、ユネスコの世界遺産に登録されて保護されている。円錐形の屋根が並んでいるのを見ると、メルヘンティクで可愛らしく土産物を売る商店も沢山並んでいた。

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アルベロベッロのトゥル-リの家
トゥル-リの構造

トゥル-リは石で積み上げた強固な基礎の壁に、石を円錐状に積み上げて屋根を作るのだが、中東から移住してきた原住民は、死者を葬るのに石を積み上げて墓石を作る技術を身に着けていた。それを応用して作ったのが始まりで、次第に洗練されたものに成ってきたと説明を受けた。円形や長方形の壁を作りこれを基礎として、天井部分を積み上げる。屋根は、瓦に相当する部分、土や砂で固める部分、基礎になる石の部分と3層になっていて、なんとその厚さ80cmになっているそうだ。空間を保つため、4本の柱でロマネスク様式のア-チを作り、丸天井の下支えとしているものもあるが、殆どか石組みだけで支えられている。円錐状に積まれる石はキャンカ-レッレッと言う石灰岩で薄く剥がれる性質を利用している。内面は石灰石と消石灰を粉末にして練り合わせ塗ってある。トゥル-リの頂上には小尖塔(ピンナ-コロ)を立てている。これは、太陽崇拝、或いは魔よけの意味があり、家の屋根に重圧をかけ強度を高めている。又、屋根に漆喰で描かれた図案は、その家の思想や信仰上の願望を表したものである。

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アルベロベッロのトゥル-リの家
アルベロヘッロの街並み

このブ-リア地方は、ナポリによって支配されていた。新しい家を作るときは必ずナポリの法律に従わなければならなかった。ナポリの法律では家を建てる場合許可を必要とした。これは税金の取立てを確実に実施するのが目的であった。そこで地元の有力者ジャン・ジィロラモ伯爵は新しい建物にモルタルを使用せず解体しやすい構造にして,ナポリの税の査察官が来る前に壊してしまい、査察官が立ち去った後、再度造り直すことが容易な建物とした。これは、脱税には大成功であったが、脱税行為が発覚して、伯爵は拘留されてしまう。伯爵の孫が実権を握ってこの町を支配した。若い権力者は暴君で住民の不平不満が蓄積した。その後スペインの支配下となり、1550年スペイン王フェナンド4世がこの地を訪れた際、住民の代表が伯爵の悪政治を不満と訴えた。王に聞き入れられて悪政は排除され、届出制度も廃止された。この時からトゥル-リの建築が本格的になった。

メルヘンチックな町並みとも別れ、バスでバリ-(Bari)に移動する。
車窓からブドウ・サクランボ・オリ-ブ・ア-モンドの果樹の木が植えられている。中にはいちぢくの木もあった。この地方は、赤色や黄色には紅葉せず、落葉してしまうそうである。
バリからイタリアが誇る高速列車ユ-ロスタ-でロ-マに向かった。車中イタリア風(ブタ肉のフライ他)の弁当が用意されたが殆ど食べなかった。
ロ-マのテルミニ駅に19:00頃到着。デ・ラ・ヴィレ・インタ-コンチネンタルホテル(De La Villeinter-Continental Roma)には歩いて行ける距離であったが、ホテルの近くまでバスで送られた。ホテルでウエルカムドリンクを飲んだ後、近くの日本式料理店で久しぶりの和式定食(刺身定食)を戴いた。日本酒も出され美味しかった。

2005.11.13

バチカン市王国は3年前にも訪れたことがある。バチカン博物館・システ-ヌ礼拝堂を通ってサン・ピエトロ大聖堂に至る一連の観光ル-トである。

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サン・ピエトロ大聖堂
バチカン博物館 天井

博物館は、バロック様式の建物で、先ず、ロ-マ時代の大理石の彫刻が陳列されている。壁面・天井には世界最高級の絵画がある。絨毯の壁掛けもある。いずれも聖書を題材にしている絵が描かれている。床はモザイクで幾何学模様が描かれている。青色のトルコ石で描かれた国旗の箇所は、柵が設けてあって踏まれないように囲われていた。絵画の展示室を過ぎると、システィ-ヌ礼拝堂へと導かれる。此処にはかの有名なミケランジェロの大作『最後の審判』がある。ミケランジェロの作品にしては異風で力強い(筋肉質の)人が書かれているが、この時代の社会情勢を考慮してこのような絵になったと言われている。上段は極楽の図を、下段には地獄の有様を、聖書を題材にして描いたと言われている。中央付近にはミケランジェロの自画像が描いてあるが、自筆のサイン代わりに挿入したもので、この時代の流行であった。他の壁面にも聖書を題材にした最高級の絵画が展示してあるが、2番目のポッテチェリ-の絵が特に興味があって良かった。礼拝堂を過ぎるとサンピエトロ大聖堂でカトリックの総本山である。カトリック教の最高顧問枢機教が居られるところである。明日(日曜日)ミサが行われる。大聖堂の内陣に入ると、先ず、ミケランジェロの彫刻が目につく。

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ミケランジェロのマリア像
聖人のミイラ
   

聖人像の彫刻を数体見た後、祭壇に祈りを奉げる。内陣内では大声が出せないので説明はなかった。
外に出てみるとサンピエトロ広場がある。楕円形で壁など囲い物はない。数十本の大きな柱が、集まった人を抱きしめる意味を込めて立っている。楕円形の中心に立てば、その柱が真っ直ぐ並んで1本の柱に見える。広場に引かれた白線を越えればイタリア国に属する。
バチカン市国を出て、「三越」に買い物に立ち寄り、ホテルに戻って自由時間となった。

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サンピエトロ広場
サンピエトロ広場

昼食はホテル近くの中華レストランで「ラ-メン」と「焼き飯」、それに「野菜炒め」をいただいた。
デ・ラ・ヴィレ・インタ-コンチネンタルホテルの直ぐ傍にスペイン広場がある。以前に来たときはスペイン広場の階段を上ったことを憶えているが、今度は階段を下りてゆく。途中、思わぬ光景を見てしまった。若いカップルが身体を寄せ合い、抱き合ったり、キスをしているのはイタリアでは日常茶飯事でよく見かける。だが階段に座って女の子が男の膝の上に抱かれて居る。当然女の子の顔は上を向いている。そして、つぶらな瞳で男の子の唇を捜しながらキスを求めている。あたかも小鳥が親鳥に餌を求める時のように! 可愛らしかった。大胆だ!
スペイン階段を降りた所は高級ブランド品の店が並ぶ商店街である。大勢の人が集まり女房の瞼が輝いてくる。ところがイタリアでは他の国の商品を売る店は限られている。ルイ・ヴィトンとバ-バリィ-以外に他国の商品を売る店は見当たらず、自国イタリアの商品を売る店ばかりである。フェラガモの店は改装中で、女性用の商品は仮り店舗で商売されていたが、男性用の商品を扱う店は、方々訪ねて探したが見つからなかった。無駄な時間を費やした。食事に出掛ける集合時間が来たのでホテルに戻った。今夜はカンツオ-ネを聞きながらの食事である。マリア・カラスに似た歌手が真っ黒の衣装に身を包み、ボリュウムたっぷりに歌っていた。楽しいひと時が過ごせた。食事は豚肉だったが硬くて食べられず、野菜サラダだけをいただいた。
 ロ-マ市内は、以前にも観光したことがあるが、映画『ロ-マ-の休日』をもう一度見るつもりで観光した。歴史的価値の高いロ-マ-ではあるが、映画のイメ-ジの方が強いのは何故だろうか? あの名優オゥドリィ-・ヘップバ-ンの魅力なのか?

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コロッセオ 外観
Colosseum内部

ヴェスヴィオ火山が大噴火した翌年にコロッセオは出来ている。コロッセオの中に入ったのは初めてで、この当時、世界で一番大きかった闘技場である。王様の目前で、惨酷にも勇敢な剣闘士同士の戦いや、剣闘士と猛獣(ライオン)と戦いが連日行われたようである。猛獣達が地下の檻のなかで出番を待ち、セリで戦いの場に導かれる様子の説明を聞くと、実践さながらの状況が想像され、迫力を感じながら舞台を見入った。
外に出てコロッセオを一周(約550m)した。出たところに凱旋門があった。「ロ-マ-の旧市外はこの辺りに城壁があったのかなぁ!」と勝手に想像していた。コロッセオの周りには、兵士の格好をした人がいて、観光客と一緒に写真を撮るモデルになってサービスをしていた。

真実の口は、サンタ・マリア・イン・コスメディン教会の壁面の一部にある。大理石で造ったライオンの彫刻である。昔はライオンの口の部分から水が出ていたのではないかおもえるが水には全く関係なく、「悪い人,嘘をつく人、があのライオン口に手を入れると抜けなくなる。噛み切られる。」と言い伝えられている。たしか「ロ-マ-の休日」でもそうだったと思うが、此処に来る人は殆どが観光客で、そのライオンの口に手を入れる為、列を作って並んで待っている。幸いこの腕、この指が無事であった。

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真実の口
コ-マ-の凱旋門

トレビの泉はバロック様式の建物の傍に「聖人像三体と馬と馬使いの像2組」の彫刻。作者は誰か聞いていないが、バロック芸術の最高峰と言われている。
トレビの泉は、ロ-マ-市内で唯一つの噴水と聞く。水量が豊富で水溜めには沢山のコインが投げ込まれている。一番の観光名所であり、市民の「憩いの場」でもある。カップルは勿論のこと老若男女を問わず大勢の人たちが集まっている。
この泉を背にしてコインを投げ込めば、「もう一度此処を訪ねることができる」という言い伝えがある。以前にコインを投げ込んだから今回来れたのかもしれない。
直ぐ傍にアイスクリ-ムを売る有名な店がある。話のネタに買って食べてみたが普通のアイスクリ-ムだ。ただ、いろんな種類をチョイスしてミックス出来るのが人気を呼んでいるらしい。

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トレビの泉
トレビの泉

ロ-マ-には遺跡と夢がいっぱいある。暫く逗留してじっくり味わいたかった。
ロ-マ-のテルミニ駅はイタリア各地からやってくる列車の終着駅である。バリから一昨日到着したときは日が暮れて見る暇がなかった。また、3年前にやって来たときは余り興味を持っていなかった。

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テルミ駅
テルミ駅玄関

近年大きくリニュ-アルされたテルミ駅を視察するつもりできて、本来ならばゆっくりと施設を視察し、人々の流れや利便性等見ておくべきところですが、三越百貨店が歩いて15分のところにあると聞いて、お土産物や他の買物に走ってしまった。
ホテルに戻ると自由時間。(今回の旅行の)団長さんから添乗員さんにお礼の品物を贈りたいと提案があり「何か見繕ってほしい」と依頼された。他のご夫妻にも協力をお願いし、プラダ製のポ-チを贈ることになった。
女房もMaxMaler のコ-トが気に入ったらしく、これを買ってホテルに戻った。
最後の晩餐会のお料理は、白身の魚とボリュ-ムのある野菜サラダだった。ワインをいただき盛り上がった。食事の後、団長が敬意を表してお礼の言葉を申し添えて、贈り物を贈呈され和やかに締めくくられた。

2005.11.14~15

ホテルからロ-マ-空港に直行した。ロ-マ-空港からアリタリア航空AZ1038便にてミラノのマルペンサ空港に寄り、AZ794便(11:45発)にて帰国の途に着いた。
ミラノを飛び立って飛行経路をモニタ-で見ていると、往路とは全く違う経路を飛んでいた。
Milano⇒Vienna⇒Krakow⇒Minsk⇒Moscow⇒Novosibirisk⇒Beijingとロシアの上空を飛行し、韓国のInchon⇒Pusanそして松江⇒岡山⇒の上空を飛行し関西空港に着陸した。 ミラノ~大阪間9630kmのフライトであった。
夕食の機内食は、往路の乗務員さんから「お肉料理を望まれるのでしたら、早い目に予約しておきなさいよ!」と教えられていた。それで早めに予約を入れて肉料理をいただいたが、やはり味付けが口に合わず食べられなかった。
今回の旅行は、朝食は殆どのホテルがバイキング形式で、好きなものをチョイスしていただけてよかった。昼食と夕食は、パスタ-やマカロニ-系が多く、ワインやビ-ル等飲み物が存分に振舞われので陽気で楽しい旅行でした。

----------おわり----------

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